天与のアムリタ
Eat 6号: Gender

この記事は2001年8月に公開されたものです。

ミツバチと花。この2つさえあれば、逆に言えば、この2つがなければ、決して作ることができないハチミツ。自然と人間の共生を象徴的に映し出すこの食材は、古今東西を問わず、多くの人々を魅了し続けてきた。

海の幸に山の幸、そして農家の人たちが手塩にかけて育てるさまざまな作物や野菜。世界には素晴らしい食材が数多くあるけれど、もし、そこに優劣を見るならば、ハチミツは間違いなく最上位にランクされるはずだ。なにしろハチミツは採ったそのままを口にすることができる上、滋養に富み、身体に効き、おいしく、保存をするために何ら加工の必要がないという稀有な食材なのである。

「大自然はこんなにちっぽけな動物から比類のないものを創造した。……ミツバチは明らかに人類にまさっている」。大プリニウスは『博物誌』の中でこう賛辞を贈っているように、黄櫨(はじ)色に輝く、この世界最古の甘味を完璧なシステムによって作り上げるミツバチは古代から多くの賢人を魅了し、ハチミツそのものも長く神聖視されてきた。だが、この感覚は一度ハチの群れに近づいた人なら、誰でもこの理解できるのではないだろうか。

点在する巣箱に近づくと、ほんのりと漂ってくる甘い香り。巣箱を開くと、ミツバチの群集の、ウワーンウワーンという羽音がサラウンド効果で全身を包むその場所は、どこか幻想的だ。取り出した巣板に顔を寄せ、巣房をのぞき込むと、女王バチが生みつけたばかりの卵、幼虫、サナギ、ミツや花粉、ロイヤルゼリーにプロポリスなどがぎっしり詰まっている。ミツロウごと口に運び、噛みしめると、天然の甘さと風味がゆっくりと口内に広がる。

「養蜂家はミツバチと花の環境を整えてあげるだけ。本物の完熟ミツは、何も足す必要も、引く必要もないんです」

ハチミツ作りの現場を案内してくれた岡山県・山田養蜂場の藤善博人さんは、そう教えてくれた。

紀元前7000年に描かれたとされるスペインのアラニア洞窟で発見された壁画には自然巣からミツを採集していたハニーハンターの姿が残されているように、人類とハチミツの関わりは長く、そして深い。「ハチミツの歴史は人類の歴史」とはイギリスの言葉だが、地球への登場は人類よりもミツバチのほうがはるかに古く、当然、ハチミツもそれだけの歴史を持つ。

ハチミツは食材としてだけでなく、薬として、お酒として、また宗教儀式にも頻繁に用いられてきた。蜜酒(ミード)は世界最古の酒と言われるが、これはハチミツの糖分が単糖類であることに由来する。水を入れて、放っておくだけで簡単に発酵するハチミツは、米や麦を原料にするよりも、ずっと簡単に酒になる材料だったのだ。また、マケドニアのアレキサンダー大王は、自身の遺言によって、その遺体を黄金の棺のなかでハチミツ漬けにさせた。ハチミツには、赤痢菌を入れても10時間で、チフス菌や大腸菌もそれぞれ48時間で死滅させるほど、強い殺菌力がある。アレキサンダー大王は、おそらくこのすぐれた効果を知っていたのだろう。

安定した収穫を確保すべく、世界で最初に養蜂を始めたのは古代エジプトで、ハシバミの小枝で編んだカゴや土製の巣箱など、紀元前2500年の遺物が発掘されている。エジプトの技術がそのまま伝えられたギリシア、奴隷を使って巣箱を管理したローマ、そしてイギリス、ドイツ など、その歴史は紀元前にさかのぼるヨーロッパに対し、日本の養蜂が始まったのは12世紀後半。しかも盛んになったのは江戸時代というからずいぶん遅れを取っている。ただし、硫黄をいぶし、ハチを皆殺しにしてから巣を採り、 ミツを絞るという荒っぽいヨーロッパのやり方 に対し、1つの巣から何度もハチミツを採ることができるよう巣を残して採蜜するなど、日本の養蜂には技術面で優れた点もあったようだ。

「乳と蜜の流るる地」

黄金色のレンゲミツ、赤みを帯びたローズマリーやオレンジミツ、琥珀色のコーヒーミツやソバミツ、結晶して白くなったものの方が舌触りがよいと人気の高いクローバーミツなど、ハチミツの色、味、香りはミツ源となる花の種類によってそれぞれ異なる。では、おいしいハチミツとはどんなハチミツなのか、藤善さんに尋ねてみた。

「味や香りはそれぞれの好みでしょう。日本人はレンゲやアカシアのように上品でクセのないものが好きだし、ヨーロッパでは糖度が80%を超える濃厚な味が好まれる傾向がありますよね。ドイツでは人気の高いボダイジュのミツも、日本人には人気ないし」

ミツ源植物の好みは個人差の問題だろうが、ハチミツそのものの出来の善し悪しというのももちろんある。「花の種類にもよるけれど、ミツバチが集めてきた花蜜の糖度はだいたい40%くらい。これをミツバチ自ら消化酵素で分解し、自分の羽で風を送って水分を飛ばし、80%近くまで糖度を上げたものが完熟ミツとよばれるものです」

だが、糖度が低い薄いハチミツをどんどん採集し、それを加熱して糖度を高めるという方法を取る生産者も一部にはいるらしい。この際、ハチミツが焦げないよう真空状態で加熱されるため、ミネラルやビタミンが失われるだけでなく、香りや風味も飛んでしまうので、これは本当のハチミツとは言えないだろう。

甘み、香り、風味、照り、栄養価、殺菌効果、保湿(しっとり)感、抜群の保存性。砂糖よりもカロリーが低く、冷たい飲み物に使った時にはなんとも言えない清涼感が出る……。こうしてその特徴を並べても、問題が1つもないとついついマイナス面もないのかと疑問を抱いてしまうものだが、どうやらこの食材の優位性はほとんど動かし難いようだ。聖書のなかの「乳と蜜の流るる地」の言葉に習い、ハチミツと牛乳だけという食生活を3カ月間試みたミネソタ大学のハイダック教授はその間健康状態に何の変化も生じず、最後にわずかに現れたビタミンC欠乏症も、オレンジジュースにハチミツを加えて飲んだらすぐに消えてしまったという。

副産物というにはあまりに価値の高いロイヤルゼリー、プロポリス、ミツロウも含め、ハチと花、そしてそこに介在する人間によって生み出されるハチミツは、まさに人間と自然の共生を象徴するものである。古代のアリストテレス、ヴェルギリウス、大プリニウスから、メーテルリンク、ビクトル・エリセ、テオ・アンゲロプロスまで、この天与の恵みは、多くの表現者たちを惹きつけてきたし、これからも惹きつけていくのだろう。

ハチミツにまつわる10の話 

1. 古代エジプトでは、死者があの世で食べられるようにと墓の中にハチミツを入れただけでなく、死体をハチミツ漬けにして、肉体が朽ちないよう祈った。

2. ニュージーランドのマヌカハチミツは、その抗菌作用の強さからやけどや皮膚病、胃ガンに対する治療ハチミツとして薬同様に扱われている。

3. ミツバチはダンスと音(リズム)で、ミツのありか、量、質を仲間に教えるが、その動きは太陽の位置によって変わる。 

4. 古代ゲルマン民族には、新婚の1カ月間、蜜酒(ハチミツで作った酒)を飲む風習があった。新婚旅行をさすハネムーンという言葉は、これに由来する。また蜜酒は、男の子を妊娠させる率を高めると信じられていた。

5. 他のハチミツと比べると10倍もの豊富な鉄分を含み、真っ黒な見た目が特徴のソバのハチミツ。中国や韓国では、昔から霊薬として珍重されてきた。

6. ミツバチは糖分があれば、花以外からも蜜を採集する。アブラムシが体から分泌した蜜を集めた甘露蜜は「森のミツ」とよばれ、ドイツやオランダで最高級のハチミツとされている。

7. ヨーロッパから新大陸のニューイングランドにハチミツが伝えられたのは1638年頃のこと。北米の先住民はミツバチを「白人のハエ」とよんだ。

8. イギリスのアン女王の美しい髪の毛はよく知られていたが、ヘアケアに多量のハチミツが使われたことは秘密にされていた。

9. 1匹のミツバチが一生のうちに集めるハチミツの量は、わずかティースプーン1杯。これはミツバチが花と巣箱の間を3万回往復した、貴重な労働の賜物なのである。

10. ハチミツは1才未満の乳児には与えないほうがいいという説がある。これは1歳以上の子供や大人には耐性があるボツリヌス菌がハチミツに含まれることがあるため。

文/塚田恭子   撮影/小野里美