墓前のフルコース
Eat 8号: 儀式

この記事は2001年12月に公開されたものです。

祖先供養は日本人にとってもっとも身近な宗教行為だ。お盆やお彼岸ともなれば親類一同が会し、お墓や位牌にはご先祖様の好物がそなえられる。死者との会食には、どんな意味が 込められているのだろう。

家の中心には仏壇があり、その上には神棚がある。祖母が毎朝仏壇にお線香をたて、お供え物をすることで我が家の一日は始まる。ご飯と汁物がついたお膳をそなえる日はまれだが、水は毎日取り替えられ、仏前にはいつも新鮮な果物やお菓子などが並ぶ。果物やお菓子は家族がすぐに降ろして食べてしまうので、その都度、新しいものがそなえられる。仏壇のそばには曽祖父母や大叔父の遺影が置いてあり、彼らがご先祖様なのだと幼心に理解している。大叔父はフィリピンのミンダナオ島で戦死したが、現在その魂は生家の仏壇に帰っている。先祖は姿こそ見えないが、家族と共にこの家の中で生きている……。これは私の生家である。家は東北地方の農村にあり、私は15年前までそこに住んでいた。毎日の先祖供養は村の全世帯に共通する習慣である。

日本人は宗教に無節操だといわれる。通過儀礼は神道に関係するものが多く、仏事といえばおもに葬祭であり、キリスト教式結婚式も多い。しかし儀式は楽しんでも、大多数の人は教義に無関心である。そういう意味では、先祖供養ほど日本人が日常的に心をこめて行なっている宗教行為はないだろう。

神様と仏様の違いや宗派の差を考えるとややこしくなるが、いわゆる「日本教」は祖霊崇拝を基本にしている。ご先祖様は氏神という土地を守る神様である。成仏している点においてはもれなく仏様でもあり、年に何度かこちらに戻ってくる。

この祖霊崇拝は日本ばかりではなく、中国、韓国、台湾などの東アジア地域に共通したもので、父系家族を中心とした同族を大切にするという社会構造と深くかかわっている。漢民族には男子を産み育てることが最大の親孝行であるという伝統があるし、長男優遇は日本でも常識だ。女性は嫁ぎ先の「家」のお墓に入るのが普通で、結婚をせずに死んだものは男女とも祖霊としてのランクが低い。ご先祖様の居場所は2カ所あり、 ひとつがお墓、もうひとつがお位牌である。位牌は家の仏壇に常設するのが普通だ。

このご先祖様たちは、みな食べ物を召し上がる。特に墓参の日は、お墓で子孫たちと会食する日で、日本のお盆、お彼岸や、中国、台湾、沖縄の清明日などがこれにあたる。墓参の日は、親族が祖先の墓を掃除して料理や酒などの供物をそなえ、時にはその場で共に飲食し、一族の安泰を祖霊に報告する機会である。メニューは必ずしも精進食である必要はなく、おいしい肉や魚の料理も墓前に並ぶ。参加者はピクニック気分で墓参を楽しむことができる。

祖霊崇拝の世界では、人は死してなお食事を欠くことがない。死者のための食事は、死後さっそく運ばれてくる。お通夜には棺のそばにお団子。火葬の前には棺に米が入れられる。葬儀の際にはお膳のほかに、冥土まで49日分の旅行食だろうか、小さな俵に入った米なども捧げられる。49日までの間も、7日おきに法事があり、そのたびに新たな食事が用意される。不安定期である49日を過ぎた死者は徐々に小食になっていく。地域差はあるが、おおむね1年忌、3年忌、 7年忌、13年忌、25年忌、33年忌を経て、ようやく一人前の祖霊の仲間入りをする。 その後は、墓参の日に皆と会食をするくらいのものである。祖霊に仲間入りすることを成仏というが、これは正統な仏教における成仏、つまりは悟りによって輪廻から抜け出すという意味ではない。この日本化された成仏は、おおむね、死者から煩悩や欲望を持った人間臭さが消え去り、家族や地域を守る氏神のような存在になるということを意味する。

食事は決して今、生きている者だけのためにあるわけじゃない

戦後、核家族化が進み、このような伝統が都市で生活するようになった者の感覚から失われつつあることは事実である。そういう私も東京に住んで長く、家には仏壇もない。

先日、毎日仏壇の世話をしていた祖母が亡くなり、しばらくぶりに実家に帰って葬儀に参加することになった。毎日お供え物をしていた祖母は、今度はお供え物をされる側になっている。仏壇には一汁一菜のお膳。村のしきたりに従い、村の人が盛りつけたごはんが白く輝いている。その墓前で、遠方から集まった親族は、村の人を交え、ご相伴の名目で酒を酌み交わし、ご馳走を食べ、お互いの健在を確認する。村では今も死が身近だ。死者はここで新たな生を受けている。

都会暮らしの長い私は、今回の祖母の葬儀を通過してほんの少し村人に戻ることができた。葬儀を終えて東京に戻る道中、訃報に接した数日前とは全く異なる安堵感に包まれていることに気が付いた。思い返せば死者は墓前のフルコースたるお膳を前に満足げである。そこには欲から解放された穏やかな静寂があった。墓前には、生と死を継ぎ目なくつなぎ、永続する万物流転の法則を隠喩する象徴としての食がある。

ここでの食は、現在生きる者だけのためにあるのではない。また死者だけでなく、これから死にゆく自分自身に捧げているようにも感じられる。「死んだら飢えることはない」ことは理解しつつも、「死んでも飢えることはない」と思っていられるほうが安心だ。仏前の「永続的食」習慣は、永遠の命を希求する凡夫にささやかな安堵をもたらすのだろう。

文/遠藤建 写真/古里司