ESGは「G」が肝心
ギル・メラー 香港鉄路有限公司 法務ガバナンス部長
「Eat Takeaway」は、世界で活躍するブランドリーダーやマーケティングリーダーに直近の抱負と課題を教えてもらうシリーズ。インタビューから得られた学びを「Takeaway」として読者のみなさまにお持ち帰りいただきます。
今回ご登場いただくのは、香港鉄路有限公司のギル・メラー氏(法務ガバナンス部長)です。香港の地下鉄(MTR)でおなじみの香港鉄路は、今年で創立45周年。鉄道事業に不動産開発を組み合わせたビジネスモデルや、長期的な事業継続を成功させる秘訣、さらには従業員を巻き込んだESGへの取り組みなどについてお話をうかがいました。
(インタビュー:ロバート・コステロ/Eat Creative事業成長責任者)
香港鉄路は、香港の地下鉄以外にもたくさんの事業を展開してます。会社の概要、事業内容、歴史などについて教えていただけますか?
香港地下鉄システムの設計、建設、運営、保守を担う会社として45年前に設立されました。現在は99駅の重軌条網と小規模な軽軌条網を運営しています。鉄道事業と並行して大規模な不動産事業も展開し、鉄道事業への投資資金を調達しています。
公共交通システム事業に欠かせないのは、財政的な持続可能性です。世界中を見渡しても、鉄道システムは決して儲かりません。これは新路線の建設やインフラ改修の投資額に見合った運賃が徴収できないからです。香港鉄路は地元の不動産開発業者と提携し、駅の真上や周辺地域に複合ビルを開発することで資金ギャップを埋めてきました。この不動産開発から得られる利益で、鉄道事業への投資を賄っているのです。財政的な持続可能性を担保しながら、鉄道駅周辺のコミュニティづくりや乗車率向上にも貢献する事業モデルといえるでしょう。
世界中を見渡しても、鉄道システムは決して儲からない事業です。
この事業モデルを実践できる地域は、それほど多くありません。特に香港地下鉄よりも古い鉄道の場合は難しくなるでしょう。香港モデルを適用しやすいのは、鉄道と不動産のインフラを同時に開発できる地域です。たとえば英国ロンドンのリバプールストリート駅周辺では、駅の改修と一体化した不動産開発計画が検討されています。乗客たちへの恩恵も大きいので、英国のネットワークレール社は同様の再開発を他地域でも模索しているようです。
さまざまな組織や政府機関が関与するプロジェクトならではの難しさもあります。香港鉄路も鉄道事業と不動産開発の両方でさまざまな組織と密接に協力していますが、提携相手との利害が常に一致するわけではありません。できるだけ低コストで早期に鉄道を建設しようと躍起になるあまり、ライフサイクル全体を俯瞰して不動産の価値を最大化する発想が軽視されるのは避けたいところです。
法務ガバナンス部長として、日々どんなお仕事をされていますか?
もともと弁護士ということもあって、事業契約、鉄道建設、人事問題などの交渉にあたりながら、会社を代表してあらゆる法的問題に対処します。コーポレートガバナンスの枠組み全般についても責任を負っています。
責任ある企業経営においてはESG(環境、社会、ガバナンス)が重視されますが、法務の世界では常に「G」のガバナンスが出発点になります。さまざまなステークホルダーの懸念を理解し、利害のバランスを最適に保つ意思決定を下すためにはガバナンスの枠組みが必要だからです。ESG関連の仕事は各事業部門に分散していますが、法務ガバナンスでは全体の戦略を設定し、進捗状況の年次報告を担当しています。
ESGを考えるとき、法務の世界では常に「G」のガバナンスが出発点。
他にもESGにまつわるリスクを特定したり、一元調達とサプライチェーンの調整役を担ったりと仕事は日々さまざまです。今日も朝から再生可能エネルギーの会議があり、法律事務所と連絡を取り合い、新規鉄道事業について保険会社とランチミーティングをしました。毎週後半には取締役会に監査とリスクの報告が求められています。
コーポレートガバナンスの実態について、もっと詳しく教えていただけますか?
香港鉄路は、ESG(環境、社会、ガバナンス)の「E」と「S」を包括的な「G」の枠組みに適合させていくスタイルです。例えば社内の「ESG資金」は、すぐに財務的なリターンが得られない環境問題や社会問題への投資に使われます。また普段の業務の中に、環境や社会に貢献する投資を盛り込むこともできます。例えば自動車を電気自動車に買い替えたい場合は 、コスト超過分にESG資金の拠出を申請できるようになっています。その一方で、ESG資金への積み立ては会社全体の財務状況と持続可能性の枠内に収める必要もあります。
環境問題と社会問題の解決に向けて、数年前には企業戦略を刷新しました。企業としての利益だけでなく、香港にとって重要な3つの目標を特定しています。すなわち「社会的包摂」、「進歩と機会の創出」、「グリーンな企業」です。
会社がやるべきことと、やらなくてもいいことを決めました。
まず公共交通事業者として、社会的包摂は重要な使命です。この社会的包摂は3つの中核分野に分かれています。第1の分野は、ユニバーサル・ベーシック・モビリティ。交通システムが安全で誰にとっても使いやすく、手頃な料金で利用できるようにさまざまな組織と協働します。第2の分野は、香港が世界に遅れをとっている労働力のダイバーシティ&インクルージョン。役員に占める女性の割合を数値目標として設定し、草の根レベルで多様性を包摂する取り組みを進めてきました。工事現場の指示書を中国語から英語に翻訳し、潜在的な従業員層も広げています。そして第3の分野は機会の均等。これは地域社会への投資や寄付という形もとっています。
環境問題や社会問題の解決を目指す企業戦略においては、香港鉄路の事業拡大がさまざまな人々に「進歩と機会の創出」をもたらさなければなりません。つまり従業員(特に若い層)に雇用や昇進の機会を提供することが大切です。サプライチェーンを支える中小企業にも貢献の機会を提供し、自社のESGパフォーマンス向上を提携企業の社会貢献に繋げられる協力体制も築きました。さらには先端技術や香港のスタートアップエコシステムとの連携も強化中。学術機関の協力も得ながら新興企業に投資し、同様に新興企業も香港鉄路を支援できるように取り組んでいます。
反ESG感情に打ち勝つには、環境や社会への投資が長期的に必ず実を結ぶと信じること。
香港鉄路は2030年までに炭素排出量を削減し、2050年までにカーボンニュートラルを達成するという科学的根拠に基づいた目標を掲げています。再生可能エネルギー発電や、エネルギー消費の効率化も推進しなければなりません。電車の減速時に発生するエネルギーを利用した「電力回生ブレーキ」や、廃棄物の処理も重要な分野です。将来の鉄道や不動産開発における低炭素設計にも力を入れています。
環境と社会に関する目標は、毎年KPIを設定して戦略的に取り組んでいます。以前は社内の各部署が別々の目標を立てていましたが、努力が分散していたために企業としての一貫性がありませんでした。そこで新しい枠組みを定め、会社がやるべきことと、やらなくてもいいことを明らかにしました。たとえば港の清掃は大事な活動ですが、香港鉄路との関連度はさほど高くありません。香港鉄路が特定分野に注力する理由を従業員に説明し、職場だけでなく家庭でも貢献できる方法を周知しています。
公共交通機関の利用率が世界一(90%)の香港から、他の都市が学べることはありますか?
新しい都市開発を設計し、交通のニーズを考え、鉄道と不動産の一体型モデルを維持するには、支援してくれる香港政府の姿勢を評価しなければなりません。香港鉄路の成功には財政的な持続可能性が必要で、鉄道網は45年間にわたって継続的な投資を受けてきました。同じ頃にできた他国の鉄道網には、継続的な投資が途絶えてしまったケースもあります。十分な投資を続けない限り、やがて業績は落ち込んでいきます。でも同時に、このような問題を認識することで、既存のシステムをアップグレードしながら解決策を打ち出すチャンスも生まれてくるのです。
「都市を動かし続ける」という言葉は、ただの標語ではなく本気で追求する企業目標です。
これからの目標は?
香港鉄路は一貫してESGを重視してきましたが、世界では反ESG感情も高まっています。世界経済フォーラムでは、今後12カ月と10年で懸念されるリスクに関する報告書が発表されました。次の10年の懸念は、主に気候変動と環境問題が中心です。しかし今後12カ月の懸念となると、経済の不確実性と地政学に関する問題が取り沙汰されるでしょう。香港鉄路には、環境や社会への投資が長期的に必ず実を結ぶという信念を貫いてほしい。鉄道路線の設計は、50年単位の長い時間軸で考えなければなりません。長期的な視点は香港に利益をもたらしてきたし、これからもそうであると確信しています。
私が見たいのは、香港鉄路が「都市を動かし続ける」という企業目標を本気で追求していく姿です。だからこそ、この目標が単なるマーケティング目的の標語だと思われないように気をつけています。数年前までのコロナ禍を乗り越え、企業目標は従業員一同のモチベーションを維持する基盤となっています。このような困難な時代に、私たちがやるべきことは何でしょう。香港鉄路の存在意義は?その答えが「街を動かし続けること」だとわかったのです。今後も大きな目標を念頭にスタッフをサポートし、鉄道やサービスの提供に力を入れていきます。
Eat Take-Away
目標設定の力を信じる。
気の利いたマーケティング用のキャッチフレーズではなく、組織として本質的な目標を明確化すること。そんな目標設定が、ビジネス、ブランド、従業員に変革をもたらします。「都市を動かし続ける」という企業目標によって、香港鉄路の進むべき方向と意思決定は明瞭になりました。正しい目標は優先すべき分野を特定し、厳しい状況でも従業員のモチベーションを維持する北極星のような指針となります。実行力と意欲があれば、目標の意義はますます強まっていきます。
現実に即したESG戦略を定義する。
野心的なESG目標を後退させる企業が増えています。その理由は、世界情勢の変化と不確実性。このような後退の陰で、ESG目標が組織の行動にまで浸透されていなかった実情も明らかになりました。企業のガバナンスによって環境問題や社会問題の優先順位を保つことで、ESGプログラムが企業運営にもしっかりと織り込まれます。どんなに状況が変化しても、ESG目標は最終的に達成可能なゴール。そんな信念の表明は、多くの企業の模範になるでしょう。
会計年度を超えた未来を見据える。
マーケティングを管轄するCMOの賞味期限は、他の役職よりも短いのが普通。でも香港鉄路は、数カ月ではなく数十年という長期的な視野に立つことで、バランスの取れた意思決定を可能にしています。従業員も事業の方向性が明確に理解できることから、不確実性を忌避する離職者の割合も下がります。長期的なビジョンを示すことで、組織は初めて持続可能な成長ができるのです。
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