一人ひとりを幸せに
山岸裕美氏 アサヒグループホールディングス顧問
「Eat Takeaway」は、世界で活躍するブランドリーダーやマーケティングリーダーに直近の抱負と課題を教えてもらうシリーズ。インタビューから得られた学びを「Takeaway」として読者のみなさまにお持ち帰りいただきます。
今回登場するのは、アサヒグループホールディングスでグループ全体のDE&I(ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン)を推進する山岸裕美氏。アサヒビールの研究所に勤務しながら社内で初めての産休取得者となり、キャリアを通して女性の新しい働き方を切り拓いてきました。変わりゆく企業や社会で、DE&Iが果たすべき役割についてお話をうかがいます。
(インタビュー:遠藤 建/Eat Creativeコンテンツディレクター)
アサヒビールに入社した動機は?
大学は薬学部でした。薬剤師の資格を取得しようと入学したのですが、在学中に学術研究の面白さを知りました。企業で研究者としてのキャリアを築いていきたいと考えるようになり、教授からの紹介もあって学部卒でアサヒビールに入社しました。当時のアサヒビールには薬品部門もあり、薬学部出身の女性も研究者として採用されていたんです。入社した1985年は、男女雇用機会均等法が施行される前年でした。
入社後の研究内容は?
入社当初は酵母を用いた有用物質の研究をおこなっていましたが、薬品部門の研究は徐々に減り、私の研究対象もビール酵母に移行していきました。ビール酵母は温度などの環境で変化しやすく、その働きを検証しながら適切な発酵の条件などを絞り込んでいく研究です。入社当時のアサヒビールは、ビールのシェアを落として長い低迷期にありました。それが1987年に発売した「アサヒスーパードライ」のヒットで、現在に至る成長の礎を作ります。幸運なことに、私も最初期からスーパードライの酵母の研究に関わることができました。
アサヒビールで初めての産休取得者です。
博士号を取得した経緯は?
研究は試行錯誤の連続ですが、思いがけない気づきにワクワクします。ひとつの成果を得るまで、たくさんの失敗も経験するものです。そのようなプロセスの面白さについて広く伝えたいという思いも高まり、1997年頃から続けてきたビール酵母の研究を博士論文にまとめました。これを学位請求論文として提出し、2010年に博士号を取得。論文執筆、学会発表、博士号の取得は研究者としてのキャリアアップにもつながります。
出産後も仕事を続けた理由は?
最初の出産は、入社から5年後の1990年でした。まだ育児休業法が成立する1991年の前年で、労働基準法の中で産前産後休業制度(いわゆる産休)は認められていましたが、会社で取得した前例はありませんでした。女性は出産を機に退職して、家庭に入るのが当たり前の時代です。でも私は、どうしても研究を続けたいと願っていました。そもそも薬学部は理系ながらほぼ半分が女性という環境で、研究分野で男女の差を感じたことはありませんでした。アサヒビールの研究室にもおおむね平等な意識があり、性別や年齢や子供の有無などで研究者を区別するような意識が自分にもなかったのです。
「子育て中に海外出張は無理」という憶測で代役が派遣されました。
前例のない産休の交渉はどのように?
会社の上司や管理職は、全員が男性です。出産後も仕事を続けたいと相談したところ、最初は「子育てとの両立は無理だろう」という返事。それでも私の意見を真剣に聞いてくれているという感触はあったので、粘り強く交渉しました。ちょうど育児休業法が国会で成立し、いずれ社内でも産休を取得できるようにするだけでなく育休制度も必要になるであろうというタイミング。労働組合も力になってくれて、結局は会社も「やらせてみよう」と判断してくれました。私がアサヒビールで初めての産休取得者です。その後も1992年と2000年の出産を経て仕事を続けてきました。
その後の社内で女性の働き方は変わりましたか?
育休制度ができた後は、産休を取得し更に育休を利用する女性社員が徐々に増えていきましたが、働く女性の環境が劇的に変わったわけではありません。私の所属していた研究所は中長期の目標を掲げて成果を出す研究をおこなっていたので 、他部署より比較的産休・育休を取りやすい環境なんです。お客様相手の納期に追われるような他部署では、まだ産休・育休制度が利用しにくい状況が続いていました。もちろん当時は、保育園探しなど社外での苦労もあります。残念だった思い出は、自分の研究を海外の学会で発表するチャンスが巡ってきた時のこと。私の意思を確認されないまま、「子育て中に海外出張は無理だろう」という憶測から代役が派遣されたのです。その10年後、当時0歳児だった3人目を育てていた時には同様の憶測はなく、私が海外の学会で発表をしました。その頃には他部署でも産休・育休制度の利用が進み、意識も徐々に変化していたと思います。
管理職となった経緯は?
ずっと研究の現場で手を動かしていたかったのですが、女性の活躍を後押ししようという機運が社内でも高まってきます。博士号を取得した2010年に、研究所の部長として微生物技術の全体を管轄する立場になりました。同時期には、他にも数名の女性が管理職に登用されています。さらに2014年には女性初の研究所長になりました。その後アサヒビールがマーケティング部門と研究部門を統合し、お客様に近い立場から商品開発にも関わりました。2022年からアサヒグループジャパンのDE&I室長になり、社長以下の経営陣との毎月DE&I関連の会議を召集したり、各部門の従業員からDE&Iサポーターを募集したりしてボトムアップの問題提起も促してきました。現在はアサヒグループホールディングスの顧問としてDE&Iを推進しています。
すべてのお客様と向き合うのは、飲料メーカーとしての必須事項。
多様性の包摂が事業に与えている影響は?
あらゆる事業が、DE&Iの価値観を必要としています。つまりジェンダー、人種、宗教、能力などの違いを乗り越えて、一人ひとりの個性を尊重しすべてのお客様と向き合うのは、そもそも飲料メーカーとして必要であるということ。このような価値観は、アサヒビールが提唱する「スマートドリンキング」(スマドリ)などの考え方にも反映されています。これはお酒が好きな人だけでなく、少しだけ飲みたい人やまったく飲まない人も同じ時間を楽しむための提案です。アルコール分3.5%以下のスマートカテゴリーなど、商品開発を通じて多様な人が楽しめる飲食文化のアップデートを目指しています。
日本社会やビジネス環境の課題は?
同質性の高いグループは多彩なアイデアに乏しく、新しいチャレンジの機会が失われます。意外なリスクに気づく視点も不足しているので、意思決定の過程に落とし穴も生じます。チャンスとリスクの両面において、DE&Iの推進は企業の成長に欠かせません。アサヒグループも国内ではまだ上級職に占める女性の割合が約11%で、ジェンダーギャップに大きな課題があります。製造業であるアサヒビールも、工場での力仕事や夜勤などの役割を男性を中心に担ってきました。それでもアサヒビール吹田統括工場には、女性工場長が就任しています。アサヒグループホールディングスは、2030年までに指導的地位にある一定層以上女性比率を40%以上を女性にします。この目標達成に向け、全世界のグループ企業で「shine AS YOU ARE」というコアメッセージを掲げながら意識の向上に努めているところです。
チャンスとリスクの両面において、DE&I推進は欠かせません。
アサヒグループが目指す未来は?
私が入社した1985年には典型的な日本企業でしたが、アサヒグループとしてグローバル化し、売上の約5割、利益の6割以上が海外です。グローバルに成長する企業として、社員の働き方はもちろんのこと、マーケティングにこそDE&Iの考え方が必要です。産休・育休の取得も当たり前になり、多くの女性がキャリアを諦めずに働けるようになりました。キャリアを通して、そんな時代の変化を体験できたのは幸運です。これから目指すべき理想は、DE&Iを謳う必要がないくらい多様性と平等を浸透させること。一人ひとりの個性を引き出し、どこまでも個人の幸せを大切にするのが目標です。
Eat Take-Away
マーケティングにこそDE&Iは不可欠。女性やさまざまなマイノリティの社員にとって働きやすい職場環境は、多彩な人材獲得を目指すHR部門の必須事項。それだけでなく、DE&Iの推進はマーケティングの成功にも不可欠です。お酒が好きな消費者だけでなく、お酒をあまり飲まない人でも楽しめるスマートドリンキング(スマドリ)のような発想が、グローバルな新規市場の開拓にも寄与します。
チャレンジを加速しながらリスク回避。同質性の高い組織は新しいアイデアを生み出しにくく、リスク管理に不安を抱える原因にもなります。かつては男性優位で産休制度すらなかったアサヒビールも、時代を先取りした社内改革で女性のリーダーを多数登用するようになりました。グローバル化や若者のお酒離れといった変化に、多様性の力で対応しています。
ゴールは一人ひとりの幸せ。グローバルな潮流を受け入れる形で、DE&Iの価値観は日本企業にも浸透してきました。しかし一人ひとりの消費者を大切にする企業方針は、決して新しいものではありません。顧客、社員、関連企業など、事業に関わる一人ひとりの幸せを尊重し、個性を引き出すのが大きな目標。その達成への近道が、グループ全体でのDE&I推進です。
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